「銀……?」
 

壁にぶつかったゴミ箱が転がる、耳障りな金属音が静まりかえった空間に響いた。
あいつはテーブルに両手をついて、吐くような姿勢で泣いているような、苦しそうな呼吸を繰り返していた。
 

「銀!」
 

俺の存在に気付いて銀は振り向いた。瞬間、目を見開いて驚いたものの、部屋に入ってきた人物が俺だとわかると途端に嫌悪の表情を作る。楽屋から激しい物音がするものだから心配してきてやったというのに、そんな顔をされる筋合いは全くない。
俺を睨みつける双眸の背後に目を走らせれば、辺りには椅子やらゴミ箱やらが、テーブルに置いてあっただろう化粧道具などが寂しく転がっていた。
 

「……橘」

「全く……何やってんだか。そんなんで主演、つとまんのかよ」
 

俺は銀の立っている辺りに近づいた。俺を見る鋭い視線は変わらず、俺としても少なからず躊躇はあったがあいつも今は必死なのだ。このまま立ち去るのも後味が悪い。銀は出ていけとは言わなかった。
 

「大丈夫かよ」

「……っせぇよ」

 
不遜な言葉を吐き出して、連なるのは舌打ちする音。さすがにカチンときた。こっちは心配してきてやってるというのに拒絶をむき出しにしたこの台詞。元々俺たちは対立し合う立場で、互いに慰めあったり励まし合ったりする間柄ではないし、そうする義理もない。

ただ、ヤスのことがあるから。あろうことかこの俺の前で涙を見せるから。俺だってさすがに放っておけなかったんだ。

だがしおらしく黙っているならまだしも、あからさまに攻撃的な態度を見せられては俺の優しさだってしぼんじまうってもんだ。
苛立ちを込めたため息を吐いて、「邪魔したな」と一言残して楽屋を出ていこうとしたときだった。
 

「……待てよ」

 
背中に投げられた声は威圧的な調子を保とうとしていたものの、うまくいったとは言えなかった。言葉よりも上ずった声や懇願の響きを伴った声色に俺は足を止めた。
 
重力に逆らえないかのように俯いたままの横顔は苦しげに歪められていた。噛み締めた唇が痛々しい。
だがやはりスターだけあって何をしても絵になるというか、俺はそんな銀の様子をみてバカなことしてなけりゃかっこいいのにな、なんて不謹慎なことを思った。
 
銀は俺を呼び止めたものの、次の言葉はなかなか出てこなかった。沈黙を居心地悪く感じた俺が踏み出した一歩は銀の声と重なった。
 

「あいつ……死ぬのかよ」


無理矢理絞り出すような声。
それは銀が言うには残酷すぎる台詞だった。
 

「……わかんねぇよ、俺には」

「監督が、よくても半身不随だってよ。……何が良いんだか、それだって死んでんのと変わんねぇじゃねーか。なぁ」


軽い調子で上げられた語尾からは痛切しか感じられなかった。肺の空気を全部吐き出すような深いため息とともに、髪をかきあげてそのまま銀は額を押さえた。俺はその言葉をあいつの意図通り冗談ととってやるべきなのか、それともその奥に見え隠れする本音に対して答えてやるべきなのかわからず、とりあえず小さく鼻で笑って返してしまった。

一体俺に何が言える? もともとこういう状況には慣れていないんだ。女の見え透いたお芝居ならいい。こっちだって芝居がかった顔を作って、言葉を選んで、慰めてやれるけど。
なんてったって、相手が銀の字だ。俺はどうすりゃいい? 今までの態度を180度ひっくり返して、優しくしてやるべきなのか?


――来なけりゃよかった。


そう後悔して視線を下に落としたときだった。視界がガクンと揺れた。銀は俺の肩を強くつかんで、短く呻いた。
銀の両腕をつかんで引き離そうとするも、その力は思ったよりも強く、俺の肩はなす術も無く揺らされた。


「なぁっ……あいつ死ぬのかよ。なんでだよ。……俺は、あいつを殺すのかよ!」


廊下にも聞こえるほどの声で銀は叫んで、俺の胸に額を押し付けた。俺はといえばあまりに突然の出来事に、拒絶するどころか銀の背中に手を回してやっていた。震える背に触れる自分の指があまりに優しかったのは、何も意図したわけじゃない。体が勝手に動いてしまった。こいつ相手にここまで優しくしてやっている自分が信じられない。だがきっとそうしなければならない状況でもあったはずだ。


「……銀、あいつが自分で決めたんだ。お前が口出しすることじゃねぇ」

「俺っ……俺は……」

「馬鹿、しっかりしろ」


銀の頭を両手で抱えて、無理やり顔を上げさせれば、ひどい顔だった。涙でメイクが落ちて目の下が黒くなっているし、それでも泣くのを我慢しているのか眉間に寄せられた皺は深い。


「……人前で涙は見せないんじゃなかったのか?」

「こ、これは……耳水……」

「なんだそりゃ……」


互いの息遣いを感じられるほどの距離に、銀はようやく理性を取り戻したのか俺からパッと離れた。袖口で涙を拭う。そうして躊躇いがちに俺と目を合わせた。
まずったな、という目をしていた。俺だって同じ気持ちだ。妙なことになっちまった。


「ま……今はあまり考えすぎるなよ。お前が主演なんだから。まずは芝居に集中しろよ」

「わかってる……」


苦手だ。この空気。俺が考える間もなく、勝手に進んでいく状況。それに……整理する暇もなく移り変わる感情。
その場から逃げるように軽やかに踵を返して、あとでな、と言い置いて俺は外に出た。怖いんだ。自分で制御できないものは。


「橘!」


部屋を出て少し小走りになったところで、その声に俺の脚は行き場をなくしたように中空を漂って、そのまますとんと下ろされた。振り向きはしなかった。銀が近づいてきてる様子もなかった。


「橘……、悪かったな」

「やめろよ、柄にもない。気持ち悪いんでやめてくれますかね?」

「……あと、な……このこと、誰にも言うなよ」

「……言わねぇよ」


やや間をおいて、ありがと、と聞こえた。銀にしてはあまりに素直なその言葉は、やはり照れ隠しからか乱暴に言い捨てられて、直後にドアが閉まる音が聞こえた。そこでようやく俺は振り返った。見えるのは長く続く人気のない廊下だけ。ホッと息をつく。だがそれは一息に収まりきらず、荒い呼吸に変わった。今になって心臓がバクバクと音を立てて体中に血をめぐらせる。むずがゆい感覚が背筋を走って、俺は頭をガシガシとかいた。

驚いたんだ。いつも俺に対してライバル心むき出しの銀が、俺を頼ってくるなんて。普段なら起こりえないことだから、驚いた。それだけだ。
だが、胸の端のほうで密かに生まれた気持ちがあることを見逃すことはできない。どんな気持ちだ? 自分でもよくわからない。ただ、例えば今、銀のことが心配で、あいつの楽屋に戻ってもう少し様子を見てやった方が良いんじゃないかとか、もっと泣かせてやった方がよかったんじゃないかとか、撮影のときにあいつと目が合ったらどんな顔をすればいいんだろうとか、そういう思いはこの気持ちから発生しているような気がする。

あぁ、いやだいやだ。ややこしい関係は嫌いなのに。
ただでさえ俺は他人に興味を持たない性質だ。もちろん周りの認識もそうだろう。なのに、あいつが心配とか、そう、よりによって銀の野郎に対してそんな気持ちを持っていることはおかしいし、周りも変に思うだろう。相手が銀じゃなかったら、こんなに気に病むことは無かったはずだ。例えば、いつも俺を頼ってくる子分の奴らとか、その辺の女なら、俺は上手い対応を知っていたし、後々に引きずったりしなかった。

でも……「誰にも言うなよ」ってことは、俺だけ特別ってことか? あいつにとっても。
俺だからこそ、あいつもひた隠しにしていた恐怖を打ち明けたのだろうか? そう思うと否応無く生まれる感情が胸をざわめかす。嬉しいような、気恥ずかしいような。


……全く、俺は何を考えてるんだ。大きく息を吐いて、壁に寄りかかった。ひんやりとした冷たさが意識を冷静にしてくれる気がする。だがこの壁を辿れば銀の楽屋にも通じているんだ、とまた別の意識が頭をもたげる。


「あぁっもうなんなんだ!」


「た……橘さん!?」


いつの間にやらアホみたいな間抜け面を晒して立っていたのは子分の一人。頭を抱えて突然声を上げた俺を、こいつは一体どう思っただろうか。


「……なんか、むしゃくしゃする」

「えっ? えぇ?」

「てめぇ、ちょっと来い! 当たらせろ!」

「えぇ!? そ、そんな……」


驚きわななきながらも素直についてくる子分を見て安心した。やっぱり俺はどこも変じゃない。いつも通りだ。

一瞬の動揺だったんだ。仕方がない、不可抗力ってもんだ。あいつを想ってやる気持ちなんて、生まれたときと同じようにきっとすぐに消える。
自分にそう言い聞かせて俺は子分を引き連れてその場を後にした。次に銀に会うときには、このわけのわからない感情が消え去っているように願いながらも、ままならない軽い足取りには目を瞑るしかなかった。